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Vol.22 マハトマ・ガンジー チャルカに込めた祈り ー真のアヒンサー(非殺生・非暴力)とはー

2014年2月15日

 あらゆる生命を持つものを同一視することは、自己浄化なしには不可能である。自己浄化なしに守られた非殺生の法則は、虚しい夢にとどまってしまわなければならない。神は心の清らかでない者には、けっして実現されないだろう。だから、自己浄化は、生活のすべての歩みのなかの浄化を意味するものでなくてはならない。また、浄化は、非常に伝染しやすい自我の浄化であるから、必然的にその人の周囲の浄化になってゆくのである。

 しかし、自己浄化の道は困難で、かつ険しい。完全な純潔を達成するためには、人は思想において、言葉において、行為において、絶対に喜怒哀楽の情から解放されていなくてはならない。愛と憎悪、愛着と嫌悪の相反する流れから、超越していなくてはならない。それを目指して、私はつねに間断なく努力しているにもかかわらず、まだこの三重の純潔(1 肉体の禁欲 2 言葉の禁制 3 憎悪、憤怒、暴力、不実など、感情・行為の抑制)にいたっていない。だから、世界から賞賛されても、私の心は動かない、かえって、私を苦しませることさえしばしばある。

 とらえがたい喜怒哀楽の情を克服す事は、私にとっては、武器の暴力によって世界を克服するよりも、はるかに困難なように思われる。インドに帰国して以来、私は自分の中に、じっと動かずに隠れ潜んでいる喜怒哀楽の情についていろいろの経験をした。喜怒哀楽の情が何であるかを知ったとき、私は、圧倒されることはなかったが、侮辱された感じにさせられた。経験と実験とは私を励まし、そして大きな歓びを与えてくれた。しかし、私の前には、なお、登るに困難な道がある。

 私自身を無に帰せしめなければならない。人は、自由意志から、自分を同胞の最後の列に置くようにならないかぎり、救いはない。非殺生は、謙譲の極限である。

 読者にしばしの別れを告げるに当たって、真実の神に対する、思想、言葉、そして行為における非殺生の恩恵を与えたまえ、との私の祈りに、ともに加わっていただきたいと願う。

「ガンジー自伝」 別れの辞 (蝋山芳郎訳」 より抜粋

 暴力の連鎖によるテロや戦争、死刑制度といったものを考えたとき、それは私自身、生きとし生けるものすべての命を真に同じものとして感受できるかどうか、という大きな問題として受け止められました。ヒンズー教や仏教、その他の多くの宗教の中にもその答えはあります。個としての宗教を、戦争という怒濤の歴史の中で唯一、非暴力を掲げた運動として展開したガンジーの試みは、精神の核を失ったかにみえる現代において、その答えを見いだしうるものと考えられます。

1月29日、スープのよろずや「花」におけるガンジーの集いでは、ガンジーの軌跡と思想の核に簡単に触れましたが、今後も様々な形で継続してゆきたいと思います。

通信笠井

印刷用Vol.22

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