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Vol.15 究極の刑を選ぶ前に

2013年11月18日

 裁判員として悩み抜いた判断が高裁で覆されるのなら、最初から裁判官だけでやってくれ――。そんな声が出るのはわかる。裁判員裁判の死刑判決が、高裁で無期懲役になるケースが続いた。裁判員制度5年目の新たな局面だ。

 社説の議論でも、陪審制のように、有罪・無罪は決めるが量刑にまでは関与しなくていい、という意見があった。しかし、厳然とあるのは、裁判官に託したとしても悩ましい懲役刑と死刑の落差だ。「刑の重さに応じた期間、刑務所で悔い改めよ」という刑罰の理念は、「命を奪うから、悔い改めはもう結構」に突然かわる。

 自由のない月日の重みならある程度想像できても、死刑はどうだろう。まして、どんな行為なら絶対に死刑、という理論などない世界だ。

 裁判員裁判の死刑判決が全員一致とは限らない。上級審が別の目で見て疑問をはさむ余地が少しでもあるなら、究極の刑は避けるべきだろう。死刑かどうかの選択に市民がかかわる本来の意味は、むしろ死刑がある現実と向き合うことではないか。

 日本では長いこと、この判断を裁判官に任せてきた。死刑執行命令は法相の裁量下で、最も重い公権力の行使ながら秘密が多い。20年前の11月、初任地の札幌で死刑執行があった。法務省は一切、公表しない方針で、取材先の検察幹部も、話をはぐらかすばかりだった。

 思えば死刑制度の分岐点だった。1980年代、4人の死刑確定者の再審無罪が相次いだ。89年から3年4カ月、執行は止まっていた。死刑の存廃やあり方について議論を深めるいい機会だったのに、秘密主義がその壁になった。あれから死刑を廃止、あるいは執行しない国は増え、日本は先進国で死刑執行を続けるまれな存在となっている。

 法務省は2007年から執行後、対象者の名前や犯罪の公表を始めた。それでも、刑の執行状況や死刑囚の生活については明らかにされない。情報公開請求で出てくる文書は、圧倒的に黒塗りだ。市民に刑の選択もゆだねる以上、共有すべき情報はもっとあるのではないか。死刑が憲法が禁じる残虐な刑にあたらないと判断し、現在まで合憲性の根拠となっている最高裁の判断は、1948年のものだ。その価値観は今に通じるか。私たちが判断を担っている。

(井田香奈子 いだかなこ: 司法社説担当)

朝日新聞デジタル 2013.11.14 より

印刷用Vol.15

 

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